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草を刈るように殺す

八卦掌の生徒さんに套路を教え始めている。
その動作の実用の解説をしていると、
見た目には舞踏のような優雅な所作とは裏腹に、
情け容赦ない極め技の連続である。

指導している自分でも、
改めて”ここまでやるか”と思うほどだ。

一、 面帶微笑
二、 殺人如割草

いずれも八卦掌の師から学んだ言葉
誤解のないようにしておきたいが、
二つの言葉は別々に教わったものである。

ただ自分の中では共通性のある言葉として
印象に残っている。

・・・・・・・・

一、 面帶微笑

八卦掌の稽古中に、口元にはわずかに微笑みを浮かべる。
気持ちが無いのに表情を作るというといかがわしい感じがするが、
心理学の実験では、先に表情という形を作ることが、
気持ちに影響を与えることが既に広く知られている。

こうした表情を保つことで、
雑念を取り払いつつ、積極的に
精神を落ち着かせる効果が得られることを知っていて、
古くから稽古に取り入れていたのだろう。
中国武術がいかに研究の進んだ科学であったかを
物語っていると考える。

話が少しがそれるようではあるが、
武術を通じて得られる体技を
単純に暴力と一緒に括るのは誤りだ。
なんとなくそうは分かっていても、
どうして違うのかきちんと説明される場合は少ないかもしれない。

心が意を導き、
意が気を導き、
気が力を導く

これが目指すところの正しい力の使い方である。
(心、意、気を合わせるという内三合)

暴力から連想される、あるいは、
私怨から生じるであろう怒りの感情は、
技の習得の妨げになったり、
身体を害すると学ぶ

言葉でそうと学ぶだけでなく、
実際に長く稽古を積んでいると、
身体でその理由が分かってくる


・・・・・・・・

二、 殺人如割草

感情を一糸乱さず相手を葬る様子を表している
上述の内容から、私はこれをただの
残忍な表現とは認識していない。

残忍なのとは別の、
武術を学ぶものにとって1つの
目指すべき境地であると思う。

一方、この言葉に対して次のような説明もあるので
一応付記しておく。

”殺人如割草”とは、”打人如抜草”の誇張で、
”打人如抜草”は精神状態を示したものではなく、
草を抜く姿勢を例えに、
手が届く時には足が届いているという、
具体的な力の使い方を示した言葉だというものだ。

それはそれで間違いないと思う。
【引用】
“梢節打人如拔草(打撃に梢節を用いるならば、草を抜くが如く),
中節打人如親嘴(打撃に中節を用いるならば、キスをするが如く),
根節打人如走路(打撃に根節を用いるならば、歩くが如く)”

※これら梢節、中節、根節を正しく合わせて動作に用いることを
外三合という。上の内三合と合わせて六合と称する。
福岡八卦掌教室 指導員/大和晋(やまと しん)
HP http://baguazhang.web.fc2.com/
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