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情報の整理


初めてこのブログにお立ち寄り頂いた方には、前書からご覧いただくことをお勧めします。

このブログで紹介している内容は、おそらく日頃から頻繁に考える分野のものではないため、或いは多くの人にとって、消化しにくいものかも知れません。そこで、少しずつ吸収しやすいように、同じモチーフの話について、角度を変えながら、繰り返し説明していきたいと思います。

身体操法の学習で使用したい動作は、中国武術の基礎練習からの引用です。中国武術にも星の数ほど流派がありますが、私の学んだ流派では、いわゆる現代スポーツのように、使用したい筋肉や心肺能力に負荷をかけ、伸ばしていくという方法をメインに据えるのではなく、今ある能力のまま、運動の質を変化させることを主目的としていることがあります。これは手品でもなんでもなく、少し説明を加えれば理解できるものです。たとえば、より遠くへ、より力強く、より早く動く能力を身に付ければ、戦闘能力は上がります。これは分かりやすいですよね。遠くから目にも留まらぬスピードで攻撃を仕掛けられたら、とても対処できません。一方、より小さい動きの中に、より大きなエネルギーを生み出すことができたら、理論上、距離とスピードという二つの比較条件を排除することができます。なぜならば、遠くからの敵の攻撃が自分の体に当たるギリギリ直前まで、こちらは動く必要がなくなるので、その時間分だけ、よく敵を見て、判断して、変化することができるようになるからです。発想の転換であり、弱者の理論です。同じものさしの上で戦ったなら、先天的な身体能力(膂力)の差で勝機を見出すことができない。それでも何とか勝つために、土俵の形を変え、別のベクトルへ能力を伸ばすことを考えた人が過去にいたのです。これが運動の質を変えるという意味です。また、この種の武術は、鍛錬を続けると、精神も肉体も健康になることが分かりました。それが有名になると、これらの武術は養生が主目的であり、実戦では使えないと言われる風潮が生まれました。こういわれるのには、練習方法の違いに起因しているのでしょう。前者のように、より遠くへ、より力強く、より早く動く能力を身に付けたいのであれば、文字通り、より遠くへ、より早く、よりパワフルに動けるよう日頃から相応の負荷をかけて、激しく練習しなければなりません。これは傍目に見ても分かりやすい。ですが、後者では、動いているのかどうかも分からないようなスピードで、できるだけ力を抜いて運動をするように強います。これでは、その理屈を知らない人が見て、誤解しても仕方ありません。しかし、実際のところ、後者の武術において、その成り立ちから、武術的要素と養生の要素は不可分で、どちらか一方だけを取り出すのは不可能なはずのものです。中国武術は、歴史的には命のやり取りのために実用一点で発達してきた一面があります。現在のように、大会で1番になった人の写真や名前が世界中であっという間に公表されるということもありませんでした。強い人が命を狙われないためには、できるだけ目立たず、人前で腕を見せず、いざという時は、誰がやったのかわからない速さで仕留める。風貌も、むしろ、一見しただけでは達人に見えない方が、敵も気を抜き勝機は上がったかもしれません。私は、先天的な身体能力(膂力)を生かし、格闘技をしている人を否定しません。先ほどの通り、そういう訓練に大量の時間を割いている人は強いに決まっています。私の学んでいる武術は、そういう訓練をしている人をとても強いと認めているからこそ、別の訓練をしていると言えます。

さて、中国武術の源は、インド人ダルマにより中国に伝えられとされています。インド人は世界で始めてゼロ(0=無)を発見した民族であり、それを元に仏教が生まれました。ヨガという健康法の発祥地でもあります。私は、仏教もヨガも学習したことがないですが、武術を学んでいる体験上から、仏教における禅、瞑想、ヨガが人にもたらす効用は、私が身体操法として掲げる効用と共通のものではないかと考えてます。もし、その仮説が正しいとすれば、これらの文化は、その優れた効用をもって非常に古くから世界中に普及していたといえます。ところが、それだけ長い間広く普及したものにもかかわらず、その感覚が身近な実感をとして伝わってきません。私はそのように感じるのですが、皆さんも同じではないでしょうか。そこで、改めて、この効用の性質を振り返り、なぜ、もっと広く庶民のレベルにまでこの文化が実感として浸透できなかったのか考えてみたいと思います。

といっても、また新しい話を展開するのではなく、また基本モチーフに立ち返ります。ポイントは、ここで普及させたい優れたことが、AとBの協力によりなりたつCという状態だということです。Cは、基本的には個人として自分の中で培う感覚です。これを普及させるためには、自分以外の第三者に伝わる形にしなければなりません。皆さんが知っている例を挙げるならば、名選手が名コーチになれるとは限らないこと、あるいは、天才がその才能を理論的に説明できるとは限らないという理屈と似ていて、Cという個人的な感覚を形にするのは非常に困難です。なぜなら、理屈や形に表現するにはA群の意識を用いなければなりませんが、AにはBが見えないため、正確にCを表現することがそもそもできません。感覚で説明したのでは、普遍性に欠け第三者には真似ができない、そして、説得力を持てません。これが一つの側面で、いわば正当法です。(実際には、人のCを表現したい欲求は、生きる感動と明日へのモチベーションと密接につながり、非常に大きくて抑えることはできず、多くは芸術として形を得て表現され続けています。)

もう一つの普及の方法は、少し裏をかいています。A群の意識を用いた表現がどうしても不可能だとわかり、なおかつ、Cを民衆に普及させてその効果を得ることは諦められないとします。そこで、Aの理屈とは完全に切り離された、もう一つ均整のとれた仮想世界を構築し、そこに、Cの効果を抽出できるシステムを盛込む方法です。「もう一つ均整のとれた仮想世界」とは、神々の世界で、その世界の均整についての説明は教義体系です。Cの効果を抽出できるシステムとは、様々な宗教儀礼を指します。色々な宗教が、「信じれば救われる」というのを耳にしますが、その通りで、その成り立ちから、Aをかなぐり捨てて、その宗教を信じなければ、Cという効果は発揮されません。ですので、多くの宗教は、時の権力と密接に結びつき、教徒に強制力を持とうとする傾向がありますが、これも、その成り立ちを考えると理屈に合います。ところで、宗教は、いつの歴史を通じても、人々の議論の対象となり、また、戦争の原因となってきましたが、それは当然の帰結です。その宗教を信じる人々がCという幸せの効果を維持したいのであれば、Aの理屈を受け入れるわけにはいきません。Aと分離することで発生した宗教が、宗教を信じないA意識の保持者と話し合いをして、話が通じるわけがないのです。

ところで、C感覚の普及について、主な二つの方法を説明しましたが、私は、そのどちらの試みも、もともとは、人が幸せになりたい、そして、他の人も幸せにしたいと純粋に願った心の現れだと理解しています。

一方話を本筋に戻すと、近現代は科学力が発達し、人々は宗教よりも科学を信じる時代になったといえます。ですので伝統的な宗教は、その基盤としてCを提供できる能力を失った、もしくは、大きく減少させてしまいました。科学はA意識の構築と形象化そのもであり、人は日常生活において幸せになるために科学力を行使する、あるいは恩恵に与っているのだから、宗教が説得力をなくす傾向にあるのも当然といえます。こうして、現在では、多くの人が宗教を失い、かつ、科学力に生活基盤を委ねることで、Cの必要性をも見失いました。ですので、Cの効果を持つであろう、宗教、禅、瞑想、ヨガ、武術は過去に広範に普及した経緯を持ちつつも、科学的説得力を欠くために、その影響力を失っていきました。(そうした社会的潮流への反動として、特に欧米では、ベトナム戦争の頃から瞑想やヨガは流行っているようですね。)

さて、このように巨視的に歴史を振り返ると、現代は人が今までに経験したことのない、ターニングポイントに立っていると見えてきます。人は、その歴史に応じて、その手段を変えつつも、何らかの形でCの効用を得る仕組みを社会に保ってきました。ところが、二つの世界大戦を経て、それ以降急激に、人は宗教を失い、そして、自然環境の破壊と、現行の経済システムや政治システムの破たんを見て、科学的手法にも明確な未来への解答を見いだせない状態でいます。こうしてCの効用を得ることがずにいることは、無防備の裸の魂で個人が世界と対決しているようなひどい緊張状態だと言えるのではないでしょうか。こうした大変な時代だからこそ、人々は自分の力で、自分の身体と精神の健康を守る方法を構築し、明るい気持ちで明日に向かっていくインフラを築かなければいけません。

(日本人としての備考)
ところで、日本人は神を信じない民族だと言われたりしますが、私はそうは思いません。自分が子どものころの記憶、両親の昔話、それに日本を歩いている時にあちこちで見かける、お地蔵さんや神社仏閣、それらを支えてきた人のエネルギーを想像し、その目的を考えると、日本人が神を信じなかった、あるいは、宗教的行事に積極的でなかったとは考えられないのです。村や町の祭りなどの定期的な行事を通じて、つい最近まで、ほとんどの人が、神道や八百万の神(アミニズム)と密接に関わってきたことを忘れがちです。私がいいたいのは、神道や八百万の神が素晴らしいということではなく、その生活に密着した行事を通じで、日本人はCの効果を多く得てきただろうという推察です。今はその時代背景から、全てのものごとを科学と経済性の二つのものさしで、必要かどうかを測りすぎるきらいがあると思っています。ある側面において、昔の人々は現代人よりも、自分にとって必要なものを実感として感じ取る能力に長けていたのではないかと思うこともあります。長い時を経て、色々な経験を積み重ね、生きていくのに必要な知識を文化として社会の中に残していく。たとえその当時科学的に説明できなくとも、経験実証的に正しいと分かるものも多かったでしょう。こと、Cの効果は、人の精神性を守る皮膜のような働きをするものです。私は人が住むどの社会においても、何らかの形でこれを守る文化があるだろう(あるいは、存在しただろう)と推察しています。

1 前書き
2 はじめに
【分類】 意識
【概要】 基本モチーフの説明
3 凧と凧糸 意識の操作と運動 
【分類】 意識
【概要】 企みが悩みになる意識の性質
4 光のしぼり 意識の性質
【分類】 意識
【概要】 二つの意識のメリットとデメリット
5 天才とは
【概要】 天才の性質を説明し、かつ、身体操法は天才でない人が学ぶための方法と説明
6 人間の進化の本当の意味
【分類】 進化
【概要】 企てたヒト 立ち止まって、動くのを止めて考えることを選んだ
7 身体操法で目標とする動作
【分類】 動作
【概要】 意識しなければいけないのに、意識すると難しくなるという矛盾
8 身体操法における動作要領
【分類】 動作
【概要】 具体的な動作要領
9 今の時代における身体操法の意義
【分類】 文化
【概要】 意識と行動を密着させる感覚を取り戻す手段としての身体操法
10 情報の整理
【分類】文化 
【概要】 普及しにくかった理由、時代を客観的に理解する
11 手作業の意味
【分類】 進化
【概要】 進化の流れから手作業の意味を解く
12 進化の反面
【分類】 進化
【概要】 ヒトの進化のデメリット
13 どうして健康になるのか
【分類】 健康
【概要】 身体操法と健康
14 究極のパズル
【分類】 パラダイム変換
【概要】 難しくて面白いパズルを例えにした説明
15 身体操法学習上の禁止事項
【分類】 練習容量
【概要】 具体的な練習方法に関して
16 AとBの性質の理解
【分類】 意識
【概要】  Bの性質の理解と活用法
17 師弟関係とは 身体操法の普遍性
【分類】 文化
【概要】 様々な分野での活用の可能性
18 パラダイム変換に関して
【分類】 パラダイム変換
【概要】 身体操法を通じて柔軟なパラダイム変換能力を身につける
19 姿勢と健康
【分類】 健康
【概要】 姿勢と健康



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